
理事長
松本義峯
医療法人 桐峰会 グループ の創業者
初代理事長 松本義峯です。
その設立は 昭和46年 6月 1日 瀬谷区に医療法人桐峰会を設立し横浜桐峰会病院を開設し以後平成17年7月27日に至る今日迄24時間年中無休で救急指定病院として活動しています。一日も休まずと言う事は大変なことでした。
私の写真は2年半前のものでこのときは87キロでした。
今は68キロです。朝飯だけ食べないようにしています。
運動はしていません。
好きな言葉:
己こそ己の寄る辺、己をおきて誰に寄る辺ぞ
良く整えし己こそ誠得難き寄る辺なり。
1971年6月、横浜市瀬谷区橋戸に閉院となった産婦人科医院をお借りして外科の病院を開設したのが私であります。
分娩台を外科の手術用に改造して、とにかく開業当時から膵臓癌、胃癌、小児外科、交通外傷、脾臓摘出、脳内血腫など、頭から足の先までなんでも手術を行う、第一線の救急外科診療所として発足いたしました。
分娩台が手術台に変わったわけですから、非常に不安定であり、12時間も手術が続くと腰が痛み、手術中にしゃがみこむようなこともありました。
分娩台を外科の手術用に改造して、とにかく開業当時から膵臓癌、胃癌、小児外科、交通外傷、脾臓摘出、脳内血腫など、頭から足の先までなんでも手術を行う、第一線の救急外科診療所として発足いたしました。
分娩台が手術台に変わったわけですから、非常に不安定であり、12時間も手術が続くと腰が痛み、手術中にしゃがみこむようなこともありました。

手術台がしっかりしていないと身体をもたれかけることもできないのでとても腰が疲れるのです。
手術が10時間も続いて腰が痛くなり、途中で座り込んだこともありました。
夏の暑い最中、冷房が効かず、窓にすだれをかけた手術室のドアを開けると、すぐ外は通りに面していて、買い物帰りの奥様達が大根や人参を籠に下げて井戸端会議をしながら帰宅する姿を手術室からのぞき見たものです。
手術が10時間も続いて腰が痛くなり、途中で座り込んだこともありました。
夏の暑い最中、冷房が効かず、窓にすだれをかけた手術室のドアを開けると、すぐ外は通りに面していて、買い物帰りの奥様達が大根や人参を籠に下げて井戸端会議をしながら帰宅する姿を手術室からのぞき見たものです。
一陣の風が吹くと、塗装はしてある道路から砂埃が手術室に舞い込むこともありました。
その当時膵臓癌の手術をした患者さんが90歳を過ぎて遂にお亡くなりになったとか、胃癌で胃を全摘した横浜市中区の患者様が93歳で天寿を全うしたなど、私が手術をおこなった患者様が、手術後元気になってからも、何十年と横浜桐峰会病院に通い続けてこられ、最後も私が看取るというケースは数えきれません。
これが開業以来40年近い歴史の賜物であります。
開設当時は、瀬谷区、旭区、保土ヶ谷区、そして北里大学病院もなかった環境でしたので、大和市、綾瀬市、時には相模原からも手術の患者様が来てくださり、今までに手術をした患者様は3万人を超えています。
つまりこの37年間で3万件以上の手術をしたことになります。
現在もこの開設者の私が、院長としてそのまま手術を続けています。
この間、横浜桐峰会病院は8回の増設工事を行いました。
私の人生を過ごすくつろぎの応接間として、最後の増築も手術室だけは立派にしました。
二部屋の手術室だけで10億円もかけました。
地下の1階と2階を全部占拠して、民間病院にしては心臓の手術もできる驚くほど立派な手術室です。
手術室を立てるときには、私の死に場所と決めていました。
過去40年間に、横浜桐峰会病院と共に診療を続けてきた地域の病院も規模を縮小したり、倒産して閉院した病院も沢山あります。
昔は、数多くの手術を行っていた外科の診療所も今は手術をおこなっていません。
また横浜桐峰会病院よりも大きな規模だった座間の病院も、横須賀の病院も、大和の病院も、沢山の病院が閉鎖或いは手術をやめて規模を縮小しました。
しかしながら、横浜桐峰会病院は、開設以来40年近くも同じペースで歩んでいます。
近くには聖マリアンナ医科大学、横浜市西部病院、大和の徳洲会病院、旭区の旭総合中央病院、泉区の国際親善総合病院、開設当時は無かった北里大学病院、国立病院機構横浜医療センターなど立派な病院が目白押しに建ちました。
その当時膵臓癌の手術をした患者さんが90歳を過ぎて遂にお亡くなりになったとか、胃癌で胃を全摘した横浜市中区の患者様が93歳で天寿を全うしたなど、私が手術をおこなった患者様が、手術後元気になってからも、何十年と横浜桐峰会病院に通い続けてこられ、最後も私が看取るというケースは数えきれません。
これが開業以来40年近い歴史の賜物であります。
開設当時は、瀬谷区、旭区、保土ヶ谷区、そして北里大学病院もなかった環境でしたので、大和市、綾瀬市、時には相模原からも手術の患者様が来てくださり、今までに手術をした患者様は3万人を超えています。
つまりこの37年間で3万件以上の手術をしたことになります。
現在もこの開設者の私が、院長としてそのまま手術を続けています。
この間、横浜桐峰会病院は8回の増設工事を行いました。
私の人生を過ごすくつろぎの応接間として、最後の増築も手術室だけは立派にしました。
二部屋の手術室だけで10億円もかけました。
地下の1階と2階を全部占拠して、民間病院にしては心臓の手術もできる驚くほど立派な手術室です。
手術室を立てるときには、私の死に場所と決めていました。
過去40年間に、横浜桐峰会病院と共に診療を続けてきた地域の病院も規模を縮小したり、倒産して閉院した病院も沢山あります。
昔は、数多くの手術を行っていた外科の診療所も今は手術をおこなっていません。
また横浜桐峰会病院よりも大きな規模だった座間の病院も、横須賀の病院も、大和の病院も、沢山の病院が閉鎖或いは手術をやめて規模を縮小しました。
しかしながら、横浜桐峰会病院は、開設以来40年近くも同じペースで歩んでいます。
近くには聖マリアンナ医科大学、横浜市西部病院、大和の徳洲会病院、旭区の旭総合中央病院、泉区の国際親善総合病院、開設当時は無かった北里大学病院、国立病院機構横浜医療センターなど立派な病院が目白押しに建ちました。
でも、横浜桐峰会病院も潰れることなく、評判の良し悪しは別としてとにかく存続しております。
消えないで存在し続けてきたことが病院としての一つの証であります。
社会に埋もれることなく、続いてこられたことはやはり何らかの形で社会に役立ってきたから、37年間も変わらぬペースで生きてこられたのだと思います。
横浜桐峰会病院に勤務したドクターも、入れ替わり立ち替わりで1,000名程、看護師となればさらに多く、患者様は総勢で何十万名になります。
院長が手術させていただいた患者様ははっきり記録に残っていて、3万人以上、ひとつひとつ数え上げてゆくときりがありません。
消えないで存在し続けてきたことが病院としての一つの証であります。
社会に埋もれることなく、続いてこられたことはやはり何らかの形で社会に役立ってきたから、37年間も変わらぬペースで生きてこられたのだと思います。
横浜桐峰会病院に勤務したドクターも、入れ替わり立ち替わりで1,000名程、看護師となればさらに多く、患者様は総勢で何十万名になります。
院長が手術させていただいた患者様ははっきり記録に残っていて、3万人以上、ひとつひとつ数え上げてゆくときりがありません。

甲子園で優勝監督がインタビューの中で良く言っております。
「とにかく、自然体でできる事を自分が一生懸命信じてやっていくしかないと思います。だから淡々と続けてきたのです。」と答えていますが、横浜桐峰会病院もまさしくこの心境です。
存在し続けてこられたことが確かなことなのです。
このことをバネにして、地域の皆様に喜んでいただける存在でありたいと考えております。
横浜桐峰会病院のモットーは「やわらかな医療」です。
「やわらかな」とは患者様にきつい事も言わず、病院の理屈を押しつけもせずさりとて患者様のわがままも受け入れず、双方が納得して患者様の望む医療をできるだけ誠意を持って応じてゆくという、淡々とした気持ちで医療を行ってゆくことだと思っています。
院長1人の力だけで、できるものではありません。
職員、地域の皆様のお力も借りて自分の信じる医療を続けてゆきたいと願っております。
皆さんのお力を貸してください。
「とにかく、自然体でできる事を自分が一生懸命信じてやっていくしかないと思います。だから淡々と続けてきたのです。」と答えていますが、横浜桐峰会病院もまさしくこの心境です。
存在し続けてこられたことが確かなことなのです。
このことをバネにして、地域の皆様に喜んでいただける存在でありたいと考えております。
横浜桐峰会病院のモットーは「やわらかな医療」です。
「やわらかな」とは患者様にきつい事も言わず、病院の理屈を押しつけもせずさりとて患者様のわがままも受け入れず、双方が納得して患者様の望む医療をできるだけ誠意を持って応じてゆくという、淡々とした気持ちで医療を行ってゆくことだと思っています。
院長1人の力だけで、できるものではありません。
職員、地域の皆様のお力も借りて自分の信じる医療を続けてゆきたいと願っております。
皆さんのお力を貸してください。
横浜桐峰会病院 院長 松本 義峯
